ほんろう


放課後の教室は静かだ。外の声は絶えず聞こえて、本を読むBGMは少し賑やかだった。野球部の野次、バッティングの音。吹奏楽部の楽器、軽音楽部の弾けるテンポ。外を回れば、きっとこれ以上の音が聞ける。

(好き、だなあ……)

文字を追うのを止め、瞼を閉じる。耳に届くのは自分の大好きな声、音。心地よすぎて目を開けていられない。少し開けた窓から風が吹いた。弱弱しいそれがカーテンを揺らす。

――ガラ……

(あ、だれか来た)

ドアが開き、上履きが床をこする音がした。きゅ、小さく、どこか慎重な足音。それがどういうわけか、自分のほうに近付いてきているような気がしてならない。徐々に大きくなる足音に、自然と体が強張った。

右頬に誰かの体温を感じた。包むように優しく添えられる。手だ。そっと頬を辿るように滑る手は大きく、少しカサついていた。男の手だ。それに気付き、ようやく焦りを感じた。

どうしよう、どうすれば。
焦る脳内とは裏腹に、さらに距離をつめた人物から香る、さわやかな香りに、体は再び動かなくなった。

(この香り、知ってる。この淡い、香りは――)

「きすしていい?れん」

一瞬で瞼が開く。しかし、もう手遅れだった。

「――あ、」

視界いっぱいに映る、焦点が合わず、ピントがずれた深い焦げ茶の髪。影をつくる長い睫、うっすらと見える焦げ茶の瞳。感じる温度は、ぴったりと、隙間なく重ねられた唇から。頬に添えられた冷たくてアツイ手のひらから。

そっと、ひどくスローモーションでその人は離れた。

「ふふ、おはよう」

今の瞬間を見せつけるように、ゆっくりと離れていった人、並木先輩は綺麗に微笑んだ。頬に添えられた手のせいか、それとも瞳に潜む欲望の色のせいなのか、その顔はどことなく艶冶だ。顔を寄せているせいで出来た影がそれを助長する。

「……寝こみを襲うなんて、最低です」
「無防備にしてる君が悪い」
「責任転嫁とか、格好悪いですよ」
「わかってないなあ」

また、綺麗に微笑む。しかし違うのは、その表情に込められた意味だ。まるで何かを企んでいるような、意地の悪い顔。それでいて色情の気配は依然と影をチラつかせる。顔が引きつった。

「お前が、そんな無防備に寝顔晒して、俺を誘うようにうっすらと唇をひらいているのがイケナイんだよ、れん」
「なっ、!」

(なにを、こいつっ!)

偉そうに言ってはいるが、完全に責任転嫁だ。紳士としての、まずそれ以前に人としてのモラルがなっていない。これじゃあただの変態だ。寝込みを襲うなんて、間違ってもやっていことじゃないだろう。

「アンタ無茶苦茶だ!」
「こら、蓮。年上には敬語でしょ?」
「この変態!」
「なに言ってんの君」

先輩が呆れたような顔で見てくるが、正直そんなの問題じゃない。問題なのは、この先輩が変態で、その変態と自分が付き合っていることが問題だ。危ない。今一度、この男に一般常識を説かないといけないだろう。

「寝込みを襲うなんて、最低です!アンタには一般常識とモラルっていうものが備わっていないんですか!?」
「失礼だなー。ありますよありますぅ」
「語尾を伸ばすな!きもい!」

おかしなことに、常識とモラルを説く前に、話が簡単にすり替わる。今言うべきは語尾を伸ばすなとかではなくて、常識とモラルだ。

「じゃなくて、アンタそれでも」
「ねえ」
「え、」

静かな声に遮られる。並木先輩はにこりと笑っていた。その笑みがあまりに綺麗で、少しぞっとした。一体何をする気なんだ。嫌な予感ばかり頭をかすめる。

「それって、寝ていたら、でしょう」
「え、あ、はぁ」
「なら、問題ないでしょ」
「はぁ?」

訝しげな声だった。並木先輩はそれさえも可笑しそうに、くすり、小さく声を漏らす。向けられた視線は色を纏っていた。

「お前、寝てないだろ」

確信的な、響きだった。

「な、知って……っ!」
「当然。でも、まあいいでしょ」
「はぁ!?」
「だって、」

――俺とキスするの、キモチイイだろ?

再び距離をつめた先輩は、自信満々に言い切った。その際、耳たぶに先輩の唇が触れる。背中を這う何か。鼓膜をなぞりあげる何か。脳内に直接響くような、艶めきかかった低音。触れた唇は冷たかった。

「ぁ、あ」
「ふふ、――かわいい」
「――!」

なんて人だ。この男は、なんて恐ろしい人なんだ。
そんな声で、目で、眼差しで、貫かれたら何も出来ない。心臓は早鐘を打って、血液は激しく脈を打つ。頬が熱い。体が熱い。プライドと常識が溶け出す。触れてくる男の手に、従順してしまう。

「そう。そうやって俺に従って、イイ子にしてな。滅茶苦茶に可愛がって、支配してあげるから」

逆らえない瞳で囁いた先輩は、焦らすように唇を重ねた。操られたように瞼を閉じる。一瞬はなれた唇は、小さく息を吐き出した。もう一度、今度は呼吸を奪うようにくちづけられる。

今日の放課後。ふたりきりの教室。
口内を蹂躙する彼に、厭らしくほんろうされる。




[ほんろう]
2011/9/26
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