傷付けあい 1


教室の外は当然寒い。雲は薄暗く灰色で、あまりいい眺めではなかった。雪が降るのかもしれない。廊下の窓から空を見上げて、梨絵はぼんやりと思った。やがて目を逸らして廊下を歩く。行先は旧校舎の国語準備室だった。

「先生」
「おー、来ましたね」
「来ましたよ、偉いから」
「じゃあコーヒー入れてあげる」

準備室のドアを開ければ、旧校舎の準備室を独占している教師が振り向いた。コーヒーが入ったマグカップを片手に、陽気に窓を見上げていたらしい。梨絵は呆れたように溜め息を吐いた。

「先生、そんなだから生徒に好かれるんですよ」
「嫌味は聞きたくないなあ」
「そうですか」

新しくコーヒーを入れている教師は、この学校の中で若い。しかも外見は中々のもので、よく噂で生徒に告白されただのと言われている。そんな彼は逃げるようにひっそりと、この旧校舎に入り浸っている。

コップを手渡され、梨絵は素直に受け取った。これくらい罰は当たらないはずだ。黒い水面を見て、しかし梨絵はほんの少し後ろめたかった。逃げるように窓の外を見る。小さな白い塊を視界の端に捉えた。窓に詰め寄る。

「雪」
「あぁ、降ってきたね」
「見ないんですか?」
「子供っぽい所、見られたくないんだ」

誰に。反射的に聞きそうになって、寸前で止める。聞いてはいけないことだと、何の根拠もなく思った。ノーフレームの眼鏡の奥は、優しく梨絵を捉えているのに。穏やかな笑みを浮かべているのに。

「……智衛さん」

とても小さい声だった。か細くて、今にも消えてしまいそうなほど弱弱しい。聞こえなければいいと、その声量が物語っていた。しかし智衛はその声を拾う。

「ここは学校だよ」
「はい」
「竹田先生、でしょ?」
「はい」

単調な返事に、智衛は違和感を覚えた。いつもなら、と考える。今ここにはない日常を考える。おざなりな返事をした梨絵は、依然として降り続く雪を見つめていた。遠くを見つめていた。

「平野さん?」
「なんでしょう、先生」
「なにかあった?」

智衛はどこか恐々と尋ねた。梨絵は振り返らずに答える。小さい背中が寒そうだった。

「……何かあったのは、先生でしょう」
「え、」
「西谷先生と、休日デート」

智衛は目を見張った。驚きに何も言えなくなる。それでも何か言おうと、口を開いては結局何も言えなかった。そんな智衛の様子を、梨絵は読めない表情で見つめていた。真っ直ぐに見つめる瞳が少しだけ伏せられている。

「デート、って……」
「知りませんか?今日学校中がその話で持ち切りだって」
「……初耳だけど」
「そうですか」

梨絵の答えは相変わらず単調だった。感情を押し殺しているのかもしれない。責めるような口調でなければ、瞳の強さもない。ただ、見つめるだけの梨絵が、智衛には酷く癪に障った。責めろよ。

「なにも言わないの?」
「何か言ってほしいんですか」
「どうだろう」

そうだ、責めてほしい。罵倒でも、泣きごとでも、縋り付くようなみっともない物でも、なんでもいい。なんでもいいから、本心だけをくれよ。褒められない愚行を、最低だと言えよ。そうしたら、

曖昧に智衛が笑う。その裏側に、身勝手な思いを秘めているとは梨絵が知るはずもなかった。ただ、不快そうに眉が少しだけ寄せられた。しかしそれだけだった。梨絵の唇は微動だにしないで、閉じられたままだ。

「……何も、言わないの」

智衛の声が僅かに震えた。梨絵の唇がそっと開く。

「別れましょう、智衛さん」

梨絵の表情は変わらない。智衛は表情を硬くした。硬直する空気に、けれど梨絵は気にした様子もなく立っていた。また静かな瞳で見据えている。智衛はいつもと変わらない梨絵の姿に酷く困惑した。

「な、に」
「浮気をした。十分な理由だと思います」
「だからって、あっさりしすぎじゃない?」
「潔いんです、わたし」

温度を感じれない梨絵の言葉に、智衛は苛立ちが膨れ上がるのを感じた。だから気が付かない。梨絵のコップを手の指先が白くなっていることに。ほんのわずかに震えたことに。梨絵の、精一杯の虚勢に。智衛は気が付かない。

「潔いって言うより、元々どうでもよかったんじゃないの?」
「だったら、付き合わないでしょう」
「最近の若者は乱れてるからね」
「……最低ですね」
「君に言われたくないよ」

簡単俺を捨てる君に、言われたくない。智衛は切なげに、ぼそりと告げた。常ならば聞こえない声が、意識すれば聞こえてしまう空間なのだとすっかり忘れて。外の学生たちのざわめきに紛れて、それは梨絵の耳にしっかりと届いた。

「……え?」

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