傷付けあい 2


それは衝撃だった。酷く寂しく聞こえたのは錯覚ではない。凄まじい攻撃力を持って、智衛の声は届いた。何を言っているんだこの人。言葉が脳内に到達して、その意味を理解して、梨絵の手からカップが滑り落ちた。

「っ、」
「な!?」

まだ温もりをもった黒い液体が足元にかかる。ばしゃっと液体の飛ぶ音がして、脛から足首のあたりに熱を感じた。上履きが黒く滲んでいく。あぁ、やってしまった。面倒なことになったと梨絵は溜め息を吐いた。

「馬鹿じゃないの君!」
「え、」
「何悠長に溜め息吐いてるの!そんな暇があるなら何か対処しろよ!」
「え、あ、はい」
「熱い所は!」

自分よりも必死なその姿に、梨絵はどうしようもない気持ちにさせられる。裏切っておいて、それはないよ先生。必死な表情に、堪えていた涙の気配を感じた。決して泣かないと決めてきたのに、こんなのあんまりだ。

「放っておいて、下さい」
「は……」
「もう、関係ないじゃないですか」

そうだ、関係ない。たった今、終わりを迎えた自分たちにある繋がりは教師と生徒だ。繋がりを持とうとしない限り、決して交わらない、そんなものだ。

「火傷もしてません。放っておいて下さい」

自分が大切で、傷付きたくなくて、無我夢中だった。二人とも。そのことに、智衛は気が付いた。涙を堪えて唇を噛みしめる梨絵を見て、ようやく。なんて言葉少なで、臆病な関係だったんだろう。傷付け合わないと理解できないなんて。けれど今の言葉で、智衛は確かに苛立った。

「うるさいな、黙っててよ」
「え、せんせ」
「突然カップ落として足にぶっかけておいて、火傷してないから放っておいて?馬鹿にしてんの」

梨絵の腕を引き椅子に座らせる。一連の動作は乱暴だった。ガシャンと椅子が鳴る。痛みに顔を顰めた梨絵は、けれど自分を見下ろす智衛に驚く。苛立ちを多分に孕んで瞳で、明らかな怒気を持って見据えられた。

どうして何も言わないんだよ。目に見えて傷付いているのに。なんで本心を明け渡してくれなんだよ。なんでもいいから、本心だけをくれよ。褒められない愚行を、最低だと言えよ。そうしたら、俺は君を惑わせられるのに。滅茶苦茶になるほど愛情を注いでしまえるのに。

「放っておいてほしいなら、弱い所を見せないことだよ。そんな隙だらけでそんな戯言」
「せんせい、」
「逃げたくなると先生って呼ぶのも卑怯だよね」
「なんで、知って……」

見上げてくる瞳は怯えていた。でも薄らと、喜びの気配が混じった。知られていた、知っていてくれた。そんな瞳だった。雄弁に物語るそれに、智衛は鼻で笑った。馬鹿にしてんじゃねえよ。梨絵を見下ろす顔は、確かにそう言っていた。

「俺は梨絵の男だよ。当然」

むしろ知らない方が恥だ。智衛はさらりと言い切る。その余裕そうな姿に、梨絵は悔しくなった。自分は知らない。また涙が滲む。年相応の姿に、智衛は内心ほっと息を吐いた。自分の余裕ぶっている姿に、どうやら騙されてくれたらしい。

「わたし、知らない……っ」
「だって見てくれてなかったもんね」
「見て、ましたよっ」

外でも、学校内でも、誰よりも早く見つけられるくらいには。西谷先生と歩いている時の表情が、笑っていても退屈なんだと分かるくらいには。見てたよ。

「なら、もっと俺を見て」
「っ、ぅ」
「俺の格好悪い所も見付けて」

変なお願いだと思う。こんな願い、普通しない。格好悪い所も見てほしいだなんて。プライドはどうしたと言いたくなって、しかし梨絵はまた泣いた。その余裕をいつか崩してやると心に決めて。

ふたりは気付かない。
傷付け合って相手を、自分を、近づけて縛り付け合っていることに。きっとふたりは、気付かない。




[傷付けあい]
2011/12/28
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