今度は優しい恋がしたい 1


皮肉にもその事実に思い当たったのは、泣きながら幸せだったと訴えかけてくる瞳に直面してからだった。

何も予定のない休日。部活も学校も用事もない日だった。ただベットに横になり、ごろりと寝返りを打つ。シーツには皺がいくつも出来ていた。それを気にすることなく再び寝返る。

「宏一郎」
「んー……」
「暇だよ、宏一郎」
「う、るさ……」

微睡む意識の中、ぼんやりとした声が耳に届く。聞き覚えのある声だ。ふわふわと浮ついて、今にも消えそうに霞む、けれど心地よい声。その声に名前を呼ばれる。しかしそれだけだった。瞼を持ち上げる。

「あ、起きた?」
「……お前のせいでな」
「寝過ぎは体に良くないぞ、若者」
「うるせー。お前だって、」

その先を言いそうになって、口を噤む。傷付けてしまうかと、そんな考えが過った。そして次に、そんな自分に気付かないフリをして、話題を変えるために口を開く。そんな様子を浮世絵離れした美しさを持って、そいつは見つめてきた。

「暇って、なにすんの」
「えー、別に私は」
「起きてるのー?宏一郎」

ガチャリと部屋のドアが開く。開けたその先にいる母親の姿に、一瞬冷や汗がつたった。どうやって誤魔化そう。不思議そうに首を傾げた母親の出方を、ひっそりと窺った。

「あら、一人で起きてるなんて珍しい」
「……どういう意味だよ」
「そのままよ。いつもなら誰かが起こさないと起きないじゃないの」
「俺だってやればできる」
「はいはい」

そう言って、母さんはドアを閉めていった。リビングに向かう足音がよく耳に響く。気配が完全に遠ざかったのを確かめて、大きく息を吐いた。脱力感が全身を襲う。体は自然とベットに逆戻りした。

「お疲れ様」
「うるせー」
「別に怪しまれてなかったよ」
「当然だろ。俺ちょう頑張ったし」

声をかけてきたそいつは、からりと笑った。目を細め、口の端をゆるく持ち上げ、ひどく優しい眼差しで。現実のものとは思えない綺麗な笑顔だった。そしてそいつは、実際現実には存在していない。

「……ほんと、頑張ったし」
「知ってるよ」

すい、とそいつは宙を滑る。どこの学校とも違うセーラー服を身にまとったそいつは、信じがたいことに幽霊だった。その証拠に体の輪郭は淡く曖昧で、薄っすらと体が透けている。おまけに声が、不鮮明だ。その声で言う。

「ポーカーフェイス、上手になったね」

またそいつは笑った。今度はどこにでもいそうな、可愛い笑みだった。



宙を漂うそいつと出会ったのは、ある日の夕暮れ時だった。退屈そうに壁に体を預けて、ぼんやりと視線を漂わせていた一人の女学生。そいつの体の輪郭は淡く、痛いほどの赤い色はその体をうっすらと透かしていた。人の体の向こう側が僅かに見える。信じられない光景に、何度も瞬きをした。

「……うそ、だろ」

ぽつりと呟いたのは、間違いだったのかもしれない。そいつは振り向き、無表情を驚きの顔へと変えた。大きく見開かれた瞳が綺麗だと、その時俺は場違いにもそう思った。呑まれそうに深い黒。その目が自分を見ている。

「あ、」

喉が掠れて声が出ない。口内はからからに乾き、脳内は酷く混乱していた。どうして体が透けているんだ。どうしてそんな驚いた顔をして俺を見るんだ。どうして、どうして。まさか。

「見えるの、君」

その一言が決定打だった。

「っ、」

体を硬直させた俺を見て、そいつは全てを悟った。ふっと苦笑いを浮かべる。それから足音もなく、滑らかに距離をつめてきた。気配はない。ものが動く音もない。現実味のないそれを、しかし俺は否定することが出来なかった。

「あ、の……」
「別に何も出来ないから安心してよ」
「、へ」
「それより君、名前は?」

そいつを通して、痛いくらい赤い色が目に入る。他に誰もいないこの帰路の先も、薄っすらと。俺はそれを否定できない。だって、見えている。呑まれそうに深い黒も、浮世絵離れしたその美貌も。全部、見えている。

「……伊塚、宏一郎」
「宏一郎、ね」
「ちょ、名前」

いきなり呼び捨てかよ。そう言おうとして、止めた。そいつは驚くほど綺麗に笑ったのだ。様々な感情を内包した、寂しそうな瞳で、なによりも綺麗に。声を失うとは正にこの事だと思った。

「よろしく、宏一郎」

差し出された手は、やっぱり透けていて。その透明さとは全く関係なく、そいつの色が白いだと気付く。自分の陰で隠れた手は病弱な白さだった。そのせいだ。そのせいで、俺は触れられないであろう手に、自分の手を重ねてしまったのだ。

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