今度は優しい恋がしたい 3


初めて会った時と同じように、その路地には人気がなかった。赤く照らされている路地が目に焼き付く。初めて会った時と今の違いは、そこに漂うように佇んでいた、こいつの姿がないだけだった。

「変わらないね、ここ」
「まぁ、そうだろ」

自分だって変わらないと思ったくせに、そう返した。そんな俺を知ってか知らずか、そいつはくすりと笑った。「怪しまれちゃうよ」からかう様に言う。小さく弾んだ声だった。

「気付いてる?」
「何が?」
「何だろう」
「はぁ?」

自分から聞いてきたくせに、そいつは首を傾げた。ふざけてる。そう思ったのに、俺は何も言わなかった。常なら言うはずの文句を飲み込む。そんな俺を見て、そいつは気付いてるねと言う。嫌な予感。

「私と宏一郎が出会って、丁度一年」
「……そうだっけ」
「そうだよ。その時の宏一郎のことよく覚えてる」
「そうかよ」
「うん」

覚えていた。当然だ、あんな衝撃的な瞬間。忘れられるわけがなかった。初めて見たんだから、あんな光景。着慣れない中学校の制服を身に纏い、赤く染まる帰路を辿る。その平素を壊した、美しい幽霊。

「もう一つ、気付いてる?」
「なにが?」
「……宏一郎の、変化」
「は、」

そいつの言葉が、一瞬理解出来なかった。何を言っているんだ。俺の変化なんてそんなの、身長が伸びたとか、体重が増えたとか、そんなことばかりだ。でもこいつが今言っていることはそんなことじゃない。

(嫌な、予感)

そいつは笑う。浮世絵離れした美しさをもって、この世の何よりも綺麗に。俺とこいつは全く違う存在なんだと知らしめる、その笑顔で。やめてくれよ、そんな顔。

「宏一郎、最近体弱いね?」
「それが、なに……」
「寝不足、偏頭痛、倦怠感。あとは集中力低下?」

そいつが口にしたのは、最近の俺に付きまとう感覚だった。自分の体はこんなに弱かったかと思ってしまう程に、それらは酷いものだった。誰にも教えていなかったのに、どうして知っているんだよ。

「ごめんね」
「な、にが」
「全部私のせいだよ」

軽やかに言い放ったそいつは、まるで自分を責めてくれて構わないという風だった。悪いのは全部自分。だから、いいよ。攻め立てて、罵倒して、口悪く罵ってくれて。何も言われていないけど、そう言われた気がした。

「違う、から」
「……。」
「ただ、最近調子が良くないだけで、別に」

言い淀んでしまって、その先を言えない。本当はわかっている。こいつが言ったように、俺の体調不良はきっと、こいつが原因なんだろう。だけど、俺は責めたくはなかった。責めずに、流したいと思っている。

「おばかさん」
「……は、」
「そんなこと言っても、何も変わらないよ。むしろ症状が悪化するだけで、宏一郎にメリットなんて何もないよ」

俺の気持ちを何一つとして汲み取らずに、そいつは言葉を続けていく。表出される不鮮明な声は、自己中心的で傲慢だった。らしくないよと、俺はからかえない。言葉なくして、やめてくれと願うばかりだ。

「ごめん、宏一郎」
「……、ぁ」
「ごめん」

繰り返される謝罪。鼓膜に張り付く不鮮明な声。赤い夕陽を透かす身体。病弱なほどの白。絶世の美貌、微笑み。視界で捉えたそれらを、網膜が焼き付ける。忘れないように心に刻み込む。

(忘れることが前提なのか)

「、」

名前を呼ぼうとして、そこで気が付く。俺は、こいつの名前を知らない。

途端に襲う絶望感は、俺に対してだろうか。それとも今にも消えてしまいそうな、目の前のこいつに対してだろうか。言葉が何一つとして声になってくれないのは、それが無意味だと決めつけているから?

そいつは硬く瞼を閉じた。風が吹く。だけどそいつの制服は揺れない。俺の服は揺れているのに。こいつは本当に、存在していないんだ。生きているのに。

瞼を持ち上げる。唇を開く。声を紡ぐ。言葉を吐き出す。全てがスローモーションだ。心を抉るようにして、そいつは存在を残していく。俺だけに、残していく。俺しかこいつの存在を知らないから。

待って。言うのよりも、そいつが落とすように笑うのが先だった。

「途方もない時間を愛しいと思えたのは、宏一郎に出会えたからだよ。宏一郎に会って、話して、迷惑をかけて、心配をさせられて、でも全部嬉しかった」

視界が滲む。頬に微かな熱が伝う。目頭が熱い。喉が痛い。姿が霞んで見えるのは、俺の涙だけが原因じゃない。だけど認められない、そんなの。

「今も、嬉しいよ」

触れられない手が頬に伸びる。そっと涙袋を撫でるように、白い指が肌の上を辿った。だけど、感触はない。わずかに冷たい気配を感じるくらいだ。気を抜いてしまえば、この指は俺をすり抜けていく。それはなんて残酷だろう。

「泣いてくれてありがとう」

そう言ったそいつは、そいつも泣いていた。一筋の涙が頬を伝う。そのたった一つの滴にはそいつの感情が詰まっている。それを見ながら、俺はぼろぼろに涙を流し続ける。止まらない。

「、ぁ、」
「しあわせだなぁ、ふふ」
「っ、」

ふざけるな。なんだよそれ。幸せって、なんでだよ。もう一緒に居られないのに。話すことも、その姿を見ることも叶わない。日々を重ねていくことで、どんなに思ったって、お前は薄れていくのに。

様々な言葉が浮かんでは消えていく。喉の辺りまで競り上がるくせに、臆病な俺は何も形にできない。俺は嫌だよとも、お前がいなくて不幸になるとも言えない。そんな不甲斐無い俺を、愛しげに見つめてくるそいつ。

今日初めて見たと思っていた。そんな愛情が詰まる瞳は。だけどそれは勘違いだった。思い返してみれば、その目を見たことは何度もある。ただ、俺が理解できなかっただけで。

「宏一郎」

穏やかな声が名前を呼ぶ。俺も呼びたいよ、お前の名前。自分の気持ちを伝えられない代わりに、お前の名前を呼びたい。

頭痛を味わったあの日。どうして大丈夫だと思ったのだろうなんて、くだらない愚問だった。俺は知っていたんだから。こいつは俺にどれだけ甘くて、優しいか。すり抜ける手に、自分の手を伸ばしたあの時から。

「だいすきよ」

俺が自分の心のそこで燻る感情に気付いたのは、皮肉にもその事実に思い当たったのは、泣きながら幸せだったと訴えかけてくる瞳に直面してからだった。失うと理解、してからだった。

あいつの姿が霞んでいく。赤い夕陽が鮮明さを増していく。涙は止まらない。言葉は溢れ出てくれない。だから、

(だから)

「、俺以外に、言うなよそれっ」

言えるわけがないだろう。なんて理不尽で、馬鹿な言葉。独占欲の塊だ。だけど、これしか言えない。その途絶えるほんの数秒さえも自分だけだと思いたいだなんて。でも、これが幼い俺の精一杯で。成す術もない、愛情の表出だった。

この先、どれだけの時間かは分からないけど、お前の存在に俺が苦しむ代わりに。そいつはまた幸せそうに笑った。涙を薄っすらと瞳に浮かべて。それもまた、そいつの愛情の表出。

お前の存在に俺は当分苦しむ。浮世絵離れした微笑みを、病弱な白を、赤い夕陽を見るたびに。刻み込まれた存在に、どうしようもなく傷つきながら。

きっと俺は泣くよ。だけど、だからこそ。
今度は優しい恋がしたい。

出来るならば、もう一度君と出会って。




[今度は優しい恋がしたい]
2012/01/30
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